2009年09月22日

大宅壮一

大阪府三島郡富田村(現高槻市)の醤油屋に生まれます。18歳の時、米騒動に際して民衆蜂起を支持する演説をおこない、旧制茨木中学(現大阪府立茨木高等学校)を放校処分となります。専検(当時存在した旧制中学卒業と同等資格)に合格し旧制高等学校入学資格を得て、第三高等学校に入学・卒業し、東京帝国大学文学部社会学科中退。ほとんど学校に出ず、授業料も納めなかったらいつのまにか除籍されてしまった、と振り返って述べています。

 新潮社で『社会問題講座』シリーズを企画編集して成功、また雑誌『新潮』に評論を発表してジャーナリストとしてデビュー。また、大久保康雄をはじめとした「翻訳工場」を組織し、多くの翻訳書を円本で刊行します。1933年にはゴシップ・スキャンダル雑誌の『人物評論』を自ら編集・刊行。

 太平洋戦争中の1941年には海軍宣伝班としてジャワ作戦に配属されました。その際、同じ班には詩人の大木惇夫や漫画家の横山隆一がいました。その後、大木はこの時の経験を基に詩集「海原にありて歌へる」を出版し、その際に大宅が跋文を書いていますが、その中で「戦争といふものは実に素晴らしい文化的啓蒙者である」と言っています。

「駅弁大学」「恐妻」「一億総白痴化」「口コミ」「太陽族」「男の顔は履歴書である」などの造語を生んでもいます。

 1967年1月に大宅壮一東京マスコミ塾を開塾します。逝去で幕が閉じられるまで、8期480名の塾生を送り出しました。彼の蔵書を元につくられた「大宅壮一文庫」は、雑誌の図書館として知られています。また、『大宅壮一全集』が全30巻で出されています。選集では『無思想の思想』(文藝春秋、1993年新版)があります。
posted by ss at 01:48| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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